連載読物

森の石松はどんな「すし」を人にすすめたか?

前回の「てんぷら」に続いて、今回は「すし」の話です。

若い方はご存じないかも知れませんが、むかし廣澤虎造(ひろさわとらぞう)という浪曲師がいて、侠客(きょうかく・男気のある人)清水次郎長の話が得意でした。特に子分の森の石松が出てくる話に人気があって、「馬鹿は死ななきゃ治らない」というくだりは、いろんな人が真似をしたものです。

その中での一番人気は、「石松三十石船(いしまつさんじっこくぶね)」という話で、船の中で親分の次郎長の噂話をする陽気な江戸の旅人に、次郎長の子分の番付を作らせて、自分の名がいつ出てくるかと期待して、「江戸っ子だってねぇ。寿司を食いねぇ」とおだてるところです。

何十年か前には、宴会でこのくだりを、虎造の独特のダミ声の節回しをまねて、謡(うた)う人が何人もいました。それに、ほら、ディック・ミネが歌った「旅姿三人男」という歌があるでしょう。あのベースは、この「三十石船」の子分自慢のところなので、一番は大政、二番は小政ときて、三番は森の石松なのですが、浪曲ではなかなか自分の名前が出てこない。やきもきした石松の「誰か忘れちゃいませんか?」という問いに、旅の男がやっと思い出して、「強い、強い、本当に強い。でもあいつは馬鹿だからねえ」というところが、話のおちで、虎造はここでお得意のせりふを唸るわけです。

さらにずっとあとになって、ヤックン・フックン・モックンの「シブがき隊」が「スシ食いねぇ!」という歌をヒットさせます。

しかし、この話を知っている人も、この船がどこの川の船で、親分の代参で讃岐(さぬき・香川県)の金毘羅(こんぴら)さんに刀を納めに行った行きか帰りか、自信を持っていえる人は少ないでしょう。森の石松は実在の人物で、実際に親分の使いで讃岐に行っています。

ところで質問。石松がここで、「寿司を食いねぇ」と奨める寿司は、どんな寿司でしょうか。

「江戸っ子だってねぇ」とおだてているところから、江戸前の鮨、まあ、マグロは日持ちがしないから、コハダかなんかの光り物のような気もするのですが、この話の元ネタになっている神田伯山(かんだはくざん)の講談では、大阪の八軒店で石松が押し寿司を買う場面があるので、間違いなく、これは押し寿司でしょう。またこの三十石船も伏見・大阪間を走る乗客三十人足らずを乗せる船なので、間違いなく、金毘羅へ行く途中ではなく、大任を終えて、やや石松がほっとした帰りの道でした。

もともと、寿司は京大阪が発生の地で、最初はいわゆる箱ずしでした。これが江戸に渡って、飯に酢と塩を加えて味付けをして、食材を長持ちさせる方法が考えられました。流れとしては桶に飯を盛って、そこにネタを載せてなれさせた「桶ずし」、それから「箱ずし」、そして「にぎりずし」、「いなりずし」と発展していったわけです。江戸で「にぎりずし」が生まれたのは19世紀前半文政年間だといわれます。

おそらく、発祥の地は、日本橋にあった魚河岸界隈でしょう。ここで売られる新鮮な魚、たとえばマグロの赤身をさっとさばいて、すばやく握った酢飯の上に載せて、朝早くめしも食わずに仕入れにきた魚屋さんに売る。これが評判でどんどん拡がっていったようです。もちろん河岸にはどんなネタでもあるわけですから、さまざまな種類ができます。

しかし、もっとも人気のあったのは現在のようにマグロではなく、ゆでた海老やコハダ、あなご、玉子焼、海苔巻などのやや日持ちするものであったようです。

だが、こうして大流行した江戸前の寿司に大変な危機が到来しました。つづく天保年間に大飢饉が来たわけです。ネタを載せる飯が入らなくなったのです。そこで、ある知恵者が豆腐を作る際にできる「おから」を、甘辛く煮た油揚の袋の中に詰めて売るという方法を考え付きました。これがもうひとつの寿司として評判になりました。「いなりずし」の誕生です。稲荷とつけたのは、油揚が狐の大好物だという言い伝えがあり、狐は稲荷神社の眷属(けんぞく・配下)で、どこのお稲荷さんにも陶製の白狐がまつられていたからです。

しかも江戸の商人は商売繁盛のしるしとして、どこでも稲荷神社を祭っていました。俗に江戸のどこにでもあるもののたとえとして「伊勢屋、稲荷と犬の糞」というのがあります。伊勢屋と言っても「だんご屋」じゃありませんよ。伊勢(三重県)から出てくる人は、みな商売が上手で、店舗をどんどん作っていく。そういえば現在のイオングループも発祥は三重県でしたね。

そして飢饉が終ると、おからの代わりに、従来の酢飯が詰められるようになった。これらでもわかるように、江戸時代の寿司はかならずしもなま物中心ではなかった。なま物中心の寿司が人気を博したのは、江戸末期から明治にかけてです。

志賀直哉の作品に「小僧の神様」という小説があります。神田の秤屋の小僧が番頭たちの噂話をきいて、どうしても寿司が食べたくなり、評判の屋台の店に飛び込む。お目当ての海苔巻がないので、ならんでいるマグロの寿司に手を伸ばすと
「一つ六銭だよ」と言われて、つまんだ寿司をすっと台の上に下ろす。
「一度持ったのを置いちゃ、しょうがねぇや」と主人は自分の手元において、すばやく口にほうりこむ。これを見ていた若い貴族院議員が偶然その小僧に会って、思い切り寿司をご馳走するという話で、中学校の教科書などによく選ばれていました。

前回の天ぷらでも言いましたが、江戸時代から明治にかけて、天ぷらも寿司も蕎麦も、主流は屋台だったのですね。天ぷらが屋台だったのは、防火の意味でそう定められていたのですが、火を使わない寿司には、この規制は当てはまりません。これは、近代から現代にかけて、寿司は桶に盛られて、一人前8貫、それに海苔巻がついて、かしこまって食べるご馳走ではなく、小腹のすいたときに、間食として食べるファーストフードだったのですね。

「小僧の神様」を読むと、私なども、ああ、この小僧のように腹いっぱい寿司が食いたいなと思い、石松三十石舟のくだりを浪曲で聞くと、「江戸っ子だってねぇ、鮨食いねぇ」という石松の台詞とともに、あたかも、この鮨が、白い飯の上にマグロの中トロの乗っかった江戸前の鮨のように思えて、「ああ、鮨が食いたいなぁ」と心底から思ったのですが、 史実を検証するとどうも違うようです。

石松が相客(あいきゃく)に「いなりずし」をすすめるなんてのもおもしろい場面かもしれませんね。ちなみに三十石舟のくだりは廣澤虎造の創作だそうです。しかし金毘羅代参は事実で、石松はその帰り道で、諸国の親分衆から預った次郎長の夫人初代「お蝶さん」への香典を狙った都田の吉兵衛という男に闇討ちに遭い、命を落とす。1861年(万延元年)のことです。丁度勝海舟らを乗せた幕府の軍艦「咸臨丸」が日米修好条約調印のために、太平洋を渡った年でした。翌年、次郎長は子分の仇討ちに浜松に出かけます。

今回はここまで。
浪曲だったら「ちょうど時間となりましたぁ」と言うんでしょうね。

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