連載読物

江戸のファーストフードは天ぷらから

東京都豊島区巣鴨に本妙寺という目立たない寺がある。都心から行くと、国道17号線を、とげ抜き地蔵の少し先で右に折れたところ。駒込から歩くと染井霊園の裏手にあたる。 この寺の一角に仏像と共に一本の供養塔が建っている。「明暦の大火供養塔」の表示があるが、これが江戸の町を三日三晩で焼き尽くした大火の死者の供養塔である。 江戸・東京の災害の死者十万人というのは、奇妙に共通する数字である。

関東大震災の死者が十万人、昭和20年3月10日の東京大空襲の死者がやはり十万人、 ふたたび東京を大地震が襲えば、やはり十万人の犠牲者と連想するのは、3月11日の三陸大津波を経験したせいだろうか。

この明暦の大火は、別名「振袖火事」と呼ばれる。その由来は、浅草の商人大増屋十右衛門のむすめ「きく」が、恋人の着物と同じ柄の紫縮緬の振袖を作ったところ、病を得て明暦元年(1655年)正月に、にわかに世を去った。両親は1月16日に娘の葬儀を本妙寺で執り行い、愛用の振袖を寺に納めた。

現在なら、この着物は当然棺とともに火葬されるはずであるが、当時は寺は受け取った 故人の衣服は焼かずに古着屋に下げ渡した。この「おきく」の振袖は本郷元町の麹屋吉兵衛に買われ、娘「花」が着た。ところが、その「花」も亡くなり、翌明暦2年の1月16日にこの振袖は再び寺に納められた。そしてまた古着屋行きとなった振袖は麻布の質屋伊勢屋五兵衛の手にわたり、娘「たつ」が袖を通した。すると、この「たつ」もあっけなくなくなった。

さすがに気持ち悪くなった伊勢屋は、前の二人の娘の両親と相談して、この振袖を寺で焼いて供養してもらうことにした。1月16日に寺に納められた柩は、翌々18日に葬儀が営まれた。くだんの振袖は本堂の前で焼かれた。
すると、突然一陣の突風が巻き上がり、火の付いた振袖を、寺の本堂の梁にからみつかせた。これが「振袖火事」の発端である。

火事は、あっというまに江戸の市中に広がり、三日三晩燃え続けた。
火は本郷から小石川へ、そして麹町へと燃え広がった。いま江戸城西の丸公園の一角に石垣だけが残っている天守閣は、このとき焼け落ち、以後再建されることはなかった。
しかし、この火事は全部本郷が火元だったのではなく、翌日の午前10時ごろ、小石川伝通院表門前の大番衆与力の番所から出火した火と、さらに同日4時ごろ麹町5丁目から出火した火事によるもので、本妙寺はこれらのほかの二つの火事の火元も被ったのである。

当時、火を出すことは大罪であり、武家はお家断絶、大名なら取り潰しの対象になる罪であった。ところが寺社は罪の対象にならなかった。
旧暦1月は今の3月である。雨が少なく、からからに乾いていた。ちょっとした火が大火事の原因となるのである。
焼け跡にあった身元不明の遺体は、舟で隅田川を下り、本所牛島新田に運ばれ、地中深く埋められた。今の両国回向院の場所である。

だが、すべてを引き被った第一の火元は本妙寺は火元でさえなかったといわれている。
真相は隣にある大名屋敷阿部家の出火の罪をすべて被ったのである。3人の娘が同じ振袖を着て、毎年同じ時期に次々と死ぬなどというのは、因縁話としてよくできすぎている。 実は、阿部家の奥女中が、火の付いた行燈を持ち歩いて、廊下でつまづき、その火が襖や障子に燃え広がったのが原因であるという。本妙寺も、江戸幕府崩壊後は、「実は…」と真相を述べている。
動かぬ証拠は、明治以降も阿部家から檀家でもないのに、莫大な供養料が本妙寺に納められているという事実である。阿部家は当時藩主阿部忠秋が老中職にあり、こともあろうに老中の屋敷から火が出たとは好ましくない。そこで、本妙寺に濡れ衣を着せたのである。

なぜ、この事件を長々と延べたかの理由は、この江戸開府から50年余り経ったのちの、この事件が、江戸の食文化をがらりと変えたからである。 ご承知のとおり、徳川家康は幼少時代、非常に苦労をしたために、食事はけっして贅沢はしなかった。米はつねに玄米を食べ、魚はめったに食べなかった。家臣たちには天ぷらを食べることを禁じ、粗衣粗食を旨とするように命じていた。

その家康が、大商人茶屋四郎次郎の勧めで、ともに鯛の天ぷらを食べ、それにあたって死んだのは皮肉な話である。一説には、家康は胃癌を患っていたといわれ、脂っこいものは禁物で、それが命を奪ったといわれる。だが、食べつけないものを食べたのが、病勢を悪化させたともいえる。

当時の天ぷらは、今のように魚をさばいて、衣をつけたものではなく、素揚げに近く、生魚に軽く衣を振り、それを油で揚げたものであった。
今も浅草雷門の横に店を張っている「三定」は三河の三吉さんが、街頭で天ぷらを揚げて売っていたのが起源とされる。当時、天ぷらは屋内で揚げてはいけないことになっていた。もっとも火事の原因になりやすく、大店でも、天ぷらは路上で揚げていた。天ぷらが市民の好物になると、屋台店が増えた。

さて、江戸中を丸焼けにした明暦の大火は、たちまち江戸の町に建築ブームをおこし、地方からも大工、左官、その他の職人がやってきて仕事を始めた。いそがしい職人さんたちは、落ち着いて食事をすることができない。そこで街頭で屋台店を出している天ぷら屋へ駆け込んで、小腹のたしにする食べ物を口にした。

江戸のファーストフードのはしりは天ぷらである。天ぷらは「天麩羅」と漢字で書く。

名前の起こりはポルトガル語、オランダ語などさまざまな説があり、一定しない。しかし「天」を「あま」「あ」と読むなら、「天麩羅」は「あぶら」であり、街頭で魚を揚げる胡麻油のツンと鼻を突く匂いが、江戸人の食欲をそそったのであろう。

それは「KFC」のカーネルおじさんの白い服と、その店先から流れてくるチキンを揚げる匂いが、1980年代の少年少女の胃袋を刺激したのと同じである。
天ぷらは今日は魚を揚げたものと野菜を揚げたものがあり、野菜を揚げたものも「野菜天」と呼ばれている。しかし、江戸時代から大二次大戦前までは、天ぷらは魚や海老を揚げたもので、野菜天は天ぷらとは呼ばなかった。これは精進揚(しょうじあげ)で、肉食をしない僧侶の料理を精進料理と呼んだのと同じである。

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